功利主義についての思考断片メモと、ネットでの情報の扱いについて

  • いいか、悪いかというよりはどうであるかだよね。まず、よくわかっていないのにいいか悪いかを決めてしまうのはおかしい。なぜなら、さっきも話したように「それが自分なら?」判断は覆るし、主張もブレブレになる。「そういう話じゃない」と言わんばかり反論はするが、けど、「あなたがさっき自分で言っていたことじゃん」となる。だって、そういうことだから。

 

ようは状況によって簡単に覆るような考え方は正しいとは思えないね。まずは、そこを吟味してから思想がどうであるかなどを考える。

 

  • ちょっと待って“科学的見解に基づくなら“、「と言われてる。」など、根拠の薄いものに頼るのは危険すぎやしないか?そもそもその根拠は正しいか正しくないか以前に、どこからそんな話が出たの?どんなデータからその見解が生まれたの?そもそも「言われている。」という言葉が使われるくらいだから、根拠以前にそもそもサンプルが少なすぎて、現代科学の数の多さから導く統計的手法が行われていなのでは科学もクソもないのでは?

 

だって、10人の話を聞いてあなたも実行すれば簡単に金持ちになれる。そんな話でしょ?けど、あなたがその行為をするだけでお金持ちになれるのなら、だいたい殆どの人がお金持ちだろうね。ここでの言いたいことは「そもそもサンプルがまったく足りていないのに、たまたま少ないサンプルから出てきた結果をあたかも、その物事全てに適用させようとしていることね。」

 

東大生は方眼紙ノートを使う。ならば、みな方眼紙ノートを使えば東大にいける。(もしくは行ける可能性が高くなるか、それに準じた大学か)

んで、東大生全員にノートは何を使ってますか?って聞いたことはあるの?5000人以上のノートは見たことはあるの?東大には毎年3000人ほどの入学者がいるらしいけど。

 

  • 要は偏見に満ち溢れているということ。情報はね。

 

まあ、正しいかどうかで結論づけてしまうのもどうかと思うけど、「結局のことは人々の見方や、最終的に行為によって得ようとする結果は変わらない」んだよね。その行為に対して、不快など一種の感情を感じるだけで、やることは変わらない。

 

むしろ、それを何度も正当化しようとして失敗している。失敗と言うか本質が変わらないのに、その場その場の状況によって主張を放っても、目的が一貫していないので、無理があるのだけど。